渓流の里、貴船に、夏の風物詩、川床の季節が
やってまいります。
川床は大正後期ふじや先々々代、
藤谷駒次郎がはじめました。
以来 、京都、唯一の避暑地としてたくさんの人々に
愛されてまいりました。
川魚ひとすじのふじやにとりまして、
川床料理はおもてなしの原点です。
忘れていたものを思い出す、
ひとときの別世界へあなたを誘います。
プライベート、ご商談、ご接待、あらゆるご宴席に
ご利用下さいませ。
ふじやでは特に川床期間中、ほぼ週替わりでお献立を変えます。
いつお見えになってもその都度新しいふじやの献立にご期待下さい。 |
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川床期間 | : 5月1日より9月30日まで。 |
ご利用時間 | : 午前11時より午後8時まで。(最終入店:午後7時) |
御料金 | : お一人様 ¥13,750(消費税・奉仕料 込)より ※ご利用は2名様より承っております |
駐車場 | : 10台完備 |
※ 夏季川床期間中は川床でお召し上がりいただきます。 ※ 川床期間中、雨天の場合はお部屋でのお食事になります。 ※ ご朝食はお食事処でのご提供です。 |
先々代藤谷虎男
ふじや先々代、藤谷虎男インタビュー 朝日新聞昭和52年6月12日掲載より抜粋
川床は、ぼくが子供の頃、そう、大正の頃に茶店みたいなのをやっていた養父(駒次郎さん、昭和9年、61才で死去)が、
五尺と六尺の畳ほどの床几(しょうぎ)を川の中に置いてみたんですわ。
そのころはせいぜい流れに足をつけて、お茶でも飲みながら涼んだだけで、料理なんかは部屋で食べていました。
ぼくが家業を手伝いだしたころ、(昭和初期)から客に好まれて床几をふやすようになりましてね。
いまのような床にしたのは戦後のこと。「観光調」になったのは、ほんの十年前からなのです。
いま、料理旅館は二十軒ですが、客が来るからいうて、収容度を拡張してみても、
大衆化したりして、
貴船のよさが失われるようでは、自分の首を絞めるようなもんや、いうてますのや。
ほとんど土地がないことやし、この先も変わらんと思うんやが、
変わるようではあかんと思うてます。
川の汚れに気をつけ、昔風のひなびた雰囲気を守っていかねば、人が来んようになるのとちがい
ますやろか。
貴船というところは、交通の要所でしてね、北丹波の周山から京都の町へ行くのに、
芹生(せりょう)峠を越えて、貴船を通るのが最短距離だったんです。
いまではみんな高雄を回っていますが。
それで、ぼくのところは天保(江戸時代後期)のころから旅籠屋で、確かぼくが九代目です。
わらじがけで芹生峠を越えてきた人らが、ぼくのところで着替えたりして服装を整えたそうです。
大々的に料理旅館をするようになったのは、親父が年をとってからのこと。
それまでは親父は山仕事をしたりして、母(まつ、昭和二十九年、七十三才で死去)が
食べ物の味付けをして、客の世話なんかしてました。
そのころ、他に茶店が一軒ありましたが、それもそのうちなくなったようです。
小学校を出るとき、親父が「商売に勉強はいらん」いうて、でっちにやらされましてね。
先生らが「勉強やらしてやってくれ」いうて頼んでくれたんですが、「商売にはいらんもんや」いうことで、おばさんがやっていた京都市内の料理屋へ五年間、でっちに行きましたや。
わたしが家に帰った昭和の初めに鞍馬電鉄(いまの京福電鉄鞍馬線※注)が開通、やがて貴船神社と府立植物園(京都市左京区)のあたりを結ぶバスも走り出しまして、そんなことでにぎわうようになったんです。
いまの民宿みたいなことをやってたんですが、川の中に置いた床几がえらい受けて、そのうち断りするようになったほどでした。
それで、昭和五年に新築しました。
歌人や俳人、それから画家ら名士の人らも好んでこられたようです。お手伝いの人が「いまのが川端先生(川端康成)やった」とかいったりしてましたね。
富岡鉄斎さんらもよく来られました。
戦後、世の中落ちついてくるにつれ、やっと来る人もふえるようになって、昭和二十七年でしたか、「貴船観光会」をつくりました。
そのときの料理屋や茶店は五、六軒でしたね。ぼくは「ここは観光でしか生きる道がない」と思うてましたので、鞍馬からハイキング道の整備をやったり、川掃除なんかに精を出してきました。
おかげさんで、その通りになってきましたんで、それでよかったと思ってますのや。
夏は涼しいですよ。町(京都市内中心部)とは十度は違う。
町が三十五度なら、床なら二十二、三度かな。
真夏でも夕方になると、ゆかたがけの涼み客が「トッパーを貸してくれんか」というほどなんです。
ここでは、こたつとすだれが入れ替わるんです。
床は六月一日から九月いっぱいなんですが、五月いっぱいこたつが離せません。
こたつが終わると、すぐに床とすだれ、それがすむと、どうかしたら十月中にこたつがいるんですよ。
というても、冬はそんなに寒くないんです。強い風が当たらないためでしょうかね。
まぁ、すごしやすいところですねえ。
だけど、ここは土地がないんで、食糧をよそから移入しなければならんもんだから。
戦争中は苦労しましたなぁ。
ぼくは昭和十七年から当時の愛宕郡鞍馬村の収入役に引っ張り出され、前後、二年間ほど村長を
やらされたんですが、食糧の見通しが立たなかったことに弱りました。
栄養失調で亡くなるものが出るし、そのときの千二百人の村民の食糧確保で精根が尽き果てましたね。
ヤミもやりましたよ。「鞍馬炭」はやわらかい炭で知られていたんですが、
供出の割り当てをごまかしたりして、ムギと交換したもんです。
何もでけんような狭い土地にジャガイモを植えたりしたもんですが、
ネズミのしっぽみたいなものしかできず、ほんまに苦労しましたなぁ。
貴船はええとこなんですが、かなわんのは水害ですな。
何度も家が流され、昔の水害ははっきりした記録がないんやけど、ぼくが家業をするようになってからでも、三度水害にあっているんです。
昭和十年と二十六年、三十四年です。
十年六月のでは、床の間のちがい棚まで土砂に埋まりましたよ。
二十六年のときは、貴船神社の山腹が土砂くずれを起こし、ぼくのところの本館がやられました。三十四年のときは、貴船川へくずれ落ちた樹木や土砂が流れを止めたため、あふれた川の水がいまの道路のあるところをまともに流れ、ぼくの家や貴船神社の鳥居なんかも流されました。
十年のときは鴨川もあふれ、先斗町あたりは水びたしになりましたね。
ふだんはおだやか流れなんですが、この奥は芹生峠まで五キロもあるし、枝谷もいっぱいあるんで、集中豪雨になると、こわいんですよ。
大水になると、近くの小高い場所へ逃げるんですが、いまある二十軒はそれぞれ四つの地区に別れて、四カ所の避難場所へ行くんです・・・。(あと省略)
※注 現在は叡山電車鞍馬線になっております。